放送大学『人間にとって貧困とは何か』第2回見田宗介「まなざしの地獄」を読む

第2回まとめ

私たちは「何か」であることを求めてやまない存在で、「何か」であるためには認めてくれる誰かが必要になる。今の自分ではない「私」がそれぞれにおいて想像されている。その想像を想像に終わらせることなく、想像の中の「私」ににじり寄るように自己を造形しようとする。そういう人々の無数の企てがある。そこにおける想像の現実化とは自己提示と承認の取り付けに挑戦し成功することを意味する。

貧しい人々は、そのための手段を剥奪されており、またネバネバとまとわりつく否定の眼差しによって、今の自分ではない自分への欲望を挫かれてしまいがちだ。

にもかかわらず貧者は貧困に抗ってささやかに、あるいは無謀にも「尽きなく存在する」余地を探り、今の自分ではない自分を提示しようともがく。

貧困の社会学はそこへと関心を向けるべきだ。

 

以上の講義を聴いて、これまで貧困について、生活の物質的な欠乏だけに目を向けていたことに気づいた。金銭や物の欠乏が、貧者から投企の手段を剥奪し、人間の表層を捉える他者のまなざしが、今の自分ではない自分への欲望を挫くというのなら、物質的支援だけでは貧者を救うことはできないだろう。貧困問題を考える難しさの一端を知ったが、今の自分ではない自分への欲望を挫かれる苦しみなら、私にもわかる。貧困体験はないがまなざしの地獄に堕ちていた人間として、考えることができそうだ。